願望と不足感、祈りについて
この間のエントリで、神仏に祈る時に「何かを叶えて欲しい」という願望を宣言するのではなく、「成り行きのままにそれを受け流すことができるよう」祈ることが理にかなっていることに最近気がついてきたという意味の話をしました。
とにかく、なんだか分からない気分、理不尽さ、怒り、希求、欠如感、誤解への焦燥などをそっくりそのまま神仏に預けます、という祈りです。
願望を祈ることが悪いことと言うつもりはありませんし、それが必要ならば成就することにもなるでしょう。
それよりもどう祈れば楽になるか、あるいは解放されるのか、という視点が今まで自分に欠如していたことに気づいたと言った方がよいかも知れません。
これに気づいてから、近くの古刹にしばしば通うようになりました。昼の時間の空いたときに境内のお地蔵様に先のようなかたちで手を合わせます。手を合わせるだけで何故か心がすっとします。それから本堂に行き、大きな阿弥陀如来に同じように手を合わせます。偶々このお寺が浄土宗なので阿弥陀様なのですが、もし真言宗だったならば不動明王や大日如来だったかも知れません。こだわりはないのです。
もう少し考えてみます。
なかなかに表現が難しいのですが、例えば願いを求めれば求める程に苦しくなってくる感覚と言ったら良いでしょうか。
何故なのか。結局、この願いはつまり不足感と同じ意味だからなのです。
毎回、お願いをしながら不足感、不満感を再確認していたのです。
むしろ、祈っているように見えて、実際はこの不足感を自ら進んで求めてさえいたのかも知れません。
だからこそ、いま、ここで抱えていたものを自分の手から放して預けます、というかたちで祈るのが理にかなっていると思うのです。
手放すことを広大無辺な大いなるものに手伝って頂いて有難うございます、という感じです。
まだ間もないのですが、こうしてから随分と楽になったような気がします。
ヘミシンクでもエネルギー変換ボックスというテクニックがあります。
これは気にかかることや煩悶を一旦、イメージで作った大きく重い箱にしまっておくというものですが、この手放し預けるというプロセスが似ているかも知れません。
ゴーイング・ホームではこの箱に入ったものを遠くに投げ捨てるというワークがあります。
この辺りはまた別の機会にさらに考えてみたいと思います。