地蔵流し
最近、どうも地蔵尊との縁を感じています。とはいえいつもお参りしているのは巣鴨のお地蔵様ではありません。近所の古刹におられる古いお地蔵様です。
今日も昼に時間が出来たのでいつものように手を合わせました。石が歳月で崩れ、殆ど表情も分からない古い石像なのですが、拝み終わって顔を見上げると、語りかけるような柔和な表情が見て取れました。
今まであまりよくお顔を見ていませんでしたし、もう建立されてから200年以上を経ているため目鼻の造作もほぼ無くなっていて表情どころではないのですが、今日、何故かはっきりと感じ取れたのは不思議です。これほど柔和な印象のお顔だったとはと、しばらく見とれてしまいました。
さて、地蔵流しという風習もしくは祈りの形はいままで聞いたことがありませんでした。時宗の開祖、一遍上人が行ったという名号を刷った紙を配る行、「賦算」は聞いたことがありますが、神道系の厄払いはともかく尊影を川に流すというのは初耳でした。
しかし、調べてみるとこの行は伝統的なもので、各地の寺院で行われているようです。地蔵尊の徳をあまねく世間に行き渡らせる為に祈りを込めつつ小さな紙片を川に流すという、その姿を想像すると哀しくも美しい光景が思い浮かびます。
さらに調べると国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに伊藤龍弁著「地蔵流しの由来」という本が見つかりました。明治26年の刊行です。後ほど時間がある時にでもDLして読んでみたいと思います。
川は海に連なり、蒸発して雲となり、やがては大地を洗うように自然の循環そのものと言えるかも知れません。人の祈りもその一部として循環するのでしょう。